栗栖増人来兵衛日乗

いろいろやりすぎて収拾のつかない栗栖増人来兵衛の好き勝手な日記
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鈴木治「白村江~古代日本の敗戦と薬師寺の謎」
e0181546_10235031.jpgたしかジャーナリスト・岩上安身さんのツイートで知ったのだと思うが、読んでみた。図書館で借りたが、表紙は違っているので、版が違うのだろう。

新しい見方かと思ったが、1972年(昭和47年)に刊行されたものだった。日本史が好きで、当時はいろいろな歴史書を読んでいたけれど、この本のことは知らなかった。

白村江の戦いがあり、日本が大敗を喫したのは知っていた。その後、唐・新羅連合軍が侵攻してくるのを恐れて、水城を造ったり、飛鳥では「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)という運河を造ったり、遷都をしたり、という知識はある。が、唐・新羅連合軍は攻めては来ず、遣唐使を含む比較的友好的な関係を続けた、というイメージを持っており、まして唐・新羅の政治的な影響はなかったと思っていた。

鈴木氏の大まかな論点は、高松塚古墳の発見による唐文化の多大な影響を考えざるを得なくなったことにより、大敗を喫した後に戦勝国、戦敗国の関係が友好的に続いたと考えることは不自然であること。また薬師寺の薬師三尊は当時の最先端技術で造られており、日本人が学んで造ったというより、唐人が渡来して造ったと考えるべきである、ということ。同寺の聖観音像はそのための参考として持ち込まれたものではないかと。

その観点から史書を当たっていくと、どうやら唐・新羅から、戦後の監視のためにいわばGHQが来ていたのではないか。天智天皇崩御の前年に、朝散大夫・郭務悰が47隻の船に分乗して筑紫に渡来した二千人の大部隊がそれで、軍隊ではなかったにしろ、大規模な政治工作部隊それなのではないか。

その後繰り広げられる、壬申の乱、長屋王の自殺、藤原広嗣の乱、橋奈良麻呂の変、恵美押勝の反乱等々は、唐・新羅の政策と、その傀儡政権とそれに反抗する勢力間での問題ととらえる。女性天皇存在も頻繁に行われた遷都も、その関連の中で捉えられている。

これが一つの説に過ぎないのか、事実に近いと考えるのか、学者でもない私には判断できないが、考え方としては充分成り立つように思う。

後者に近い考えに立った場合、けっこう怖いなと感じたところがある。
白村江の敗戦後、唐の政治的影響から抜け出すのは、894年の遣唐使廃止以降。しかも廃止決定は日本の選択としても、その4年後には唐が消滅するので、唐の国力が弱まっていたことも間違いない。となると、日本が唐の政治的な影響力から逃れるには230年ほどの時間を要し、さらに相手の国力の衰えを待つしかなかったことになる。

そう考えると、戦後まだ68年。政治家たちも含めて戦勝国のくびきから脱するにはまだ時間が必要で、またかの国の国力の衰えがかなり明らかになってからでないと、明確な動きにならないのかも知れない。日本人ってそんな民族なのだろうかと考えてしまうと、空恐ろしい気がする。
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by kurijin-nichijo | 2013-04-07 11:35 | 歴史


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