栗栖増人来兵衛日乗

いろいろやりすぎて収拾のつかない栗栖増人来兵衛の好き勝手な日記
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板橋興宗「息身佛」
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「呼吸法」に関する本だろうと思い読んでみた。板橋興宗師は1927年(昭和2年)生まれ、元大本山総持寺貫主、現武生市・御誕生寺住職。

呼吸法そのものの本ではなかったが、座禅をしてゆっくりとした呼吸をすることを奨めておられる。その平易な枯れた語り口にはさすがの年輪を感じさせます。

その中で心に残った所をいくつか書いてみます。

平常心是道 (びょうじょうしん これどう)

この禅語は「へいじょうしん」と読まないらしいですが、平静にしていることを意味してはいない。喜怒哀楽を前提とした上で、あまり考え込まない。今起こっていることは、熾るべくして起こっているのだから、そのまま受け入れる。自分を否定せずに、ありのままでいること、だそうです。

「ことば」という文字を「言葉」と書きます。
しかし私たちは、ともすると「言葉」を「言刃」にしてしまいます。


ありますねえ、自己反省も含めて。ネット系では飛び交ってます。

非思量

思量とは考えること。考えないのが不思量。
非思量とは、作意がないこと。考えないようにすることでも、自ら無になろうと求めもしない。それは身体が直にわかっていることだそうです。

最後に師が生きる極意と言われていることを、そのまま書き写します。

私たちは、
誰に教わったわけでもないのに、
呼吸をしています。
生きているということは、
呼吸をしているということです。
このひと息ひと息が、命です。
座禅をして、呼吸を整えること。
そして、
自分の「命」に素直に息づいていること。
これが生きる極意です


塩谷博士が「生き物=息物」と言われていることにも通じていますね。
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by kurijin-nichijo | 2012-02-16 11:39 | 正心調息法
赤坂「ノベンバー・イレブンス」ラストライブ…?
e0181546_105643100.jpg赤坂に「ノベンバー・イレブンス」というライブレストランがある。ご存知も多いかと思うが、阿木耀子・宇崎竜童夫妻が経営しているお店。そこが閉店(?)するということで、よくここでライブをやっていた「魂のギター」中村ヨシミツさんが、昨晩仲間とラストライブを開催したので行ってきた。


阿木耀子さんも語りで参加、歌手の香川有美さん、三原ミユキさんとヨシミツさんの古くからの演奏仲間が駆けつけてきた。

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ギター、フルート、パーカッションの即興演奏、香川、三原のお二人の歌唱を堪能してきました。当たり前ではありますが、ライブならではの歌手の表現力ってのは凄いもんだなと改めて感じ入りました(苦笑)。

この店には以前にも何度か行ったことがあります。
苦い思い出は、もう10年近く前かな、知り合いのインド舞踊の女性から、ここで踊るのだけれど人が集まっていないようなので来てくれないかとの緊急呼び出しがあって行ってみた。二部制なので一部が終わったら帰るつもりでいた。

ところが、ところが…です。一人で行った私以外には二人連れが二組しかいない。一部終了後、一組が直ぐに帰り、しばらくして逡巡していた私を残して、もう一組も帰って行った。さぁて困りました。帰るに帰れなくなったんですが、たった一人で観るのも相当苦痛。演じる方も同じでしょうけど。

第二部直前に一組入ってきてくれてホッとはしましたが、きつかった。終了後も直ぐに帰っていいものか、知り合いが挨拶に来るまで待つべきかで、またまた逡巡。結局、異常事態で本人も事後処理に終われ、挨拶にも出てこれる状況ではなかったようなので、帰りましたが、いやはやでした。

ちなみに「ノベンバー・イレブンス」ですが、ここでライブをやっていた人たちからも「やめないで」コールが大分あったとのことで、いちおう2月半ばで一度閉店するものの、4月から「part2」ということで再スタートするとのことでした。
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by kurijin-nichijo | 2012-02-09 11:29 | 音楽
再び「逝きし世の面影」
書きたいことは沢山あれど、それを書こうとすると間違いなく長い時間を取られるので逡巡していると、このブログは「日記」ではなく「月記」になってしまっていますね。

e0181546_10411681.jpgで再び「逝きし世の面影」。

これについても書きたいところは沢山あって、本気で書いたら何日も続くような気がします。今日は「第七章/自由と身分」の内容からちょっと書いてみます。

幕末から明治初めにかけて日本人と接触した欧米人たちには、雇い主と使用人の関係に戸惑ったらしい。彼らの国では使用人は命じられたことだけをやる。それが当たり前だった。ところが日本人は、にこやかに指示を受けはするけれど、欧米人にとっては余計なことまでする。

例えば、雇った料理人に羊肉を買ってこいと命ずると牛肉を買ってくる。なぜなら、その方が安価なので雇い主の出費を抑えるべきだと自主判断したから。たしかにこれでは羊肉を食べたかった雇い主は怒るわね。

明治中期の体験談としてアリス・ベーコン女史が、その著書の中で次のように記しているとのこと。

家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやりかたで行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使にとって美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならぬ。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。

当時の日本人にとっては、命令された事柄に対して、それが雇い主にとってどのようにすれば最善の結果になるかを自分で判断して行動することが当たり前だったようだ。言われたことしかしないのは、むしろ雇い主に対して忠義に反するというところだろうか。

初めのうちはそれが「癪にさわった」アリス・ベーコン女史も、やがて使用人のやり方を受け入れる。

使用人は自分のすることに責任を持とうとしており、たんに手だけではなく意志と知力によって彼女に仕えようとしているのだと悟ったとき、彼女はやがて、彼女自身と彼女の利害を保護し思慮深く見まもろうとする彼らに、自分をゆだねようという気になる。

この辺は大分希薄になったとはいえ、まだ日本人の心象の中に根強く残っている気がする。

ただチェンバレンという人のこの言葉を聞くと、危うい面もあるのに気付く。

不服従が慣例になっている。それはわざと悪意をもってする不服従ではない。主人がやるよりも自分のほうがもっとよく主人のためにやれるのだという、下級者の側の根深い信念に基づくものである。

ここまでくるとピンと来るものがある。著者の渡辺京二氏も、そのあと次のように指摘している。

昭和前期の軍部の暴走を主導した佐官級幹部の「下克上」現象も、その淵源とするところは深いといわざるを得ない。

これは現在の官僚の問題や原子力村などにも繋がっているのかもしれない。例えば憲法や法律を変えることなく、なし崩し的に運用で変えていく傾向にある「日本」にもまだまだ色濃く残っているのかもしれない。そして自分の中にもきっと。


ということで、パソコントラブルも含めて、結局30分以上かかってしまいました(苦笑)。
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by kurijin-nichijo | 2012-02-08 11:27 | 歴史


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