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栗栖増人来兵衛日乗

いろいろやりすぎて収拾のつかない栗栖増人来兵衛の好き勝手な日記
「核の難民」~ビキニ水爆実験「除染」後の現実
「核の難民」~ビキニ水爆実験「除染」後の現実_e0181546_14444365.jpgツイッターで知り、読んでみた。

「核の難民」
~ビキニ水爆実験「除染」後の現実
佐々木英基/NHK出版

1954年3月1日、ビキニ環礁で「ブラボー」と名付けられた水爆が炸裂。第五福竜丸乗組員が被曝した時だ。ビキニ環礁の東方にあるロンゲラップ島、そしてその住民も被曝した。その後、現在に至るまでの現実を取材した内容だ。

その2日後、住民を他の島に移送するものの、広島・長崎への原爆投下の後の対応と同じく、アメリカは治療目的ではなく、研究目的で住民に対応する。1957年にアメリカが安全宣言を出したことにより、被曝した85人と、爆発時に他島にいたりして被曝しなかった165人が帰島。それにより被曝被害がさらに広がることになった。その状況でもアメリカは安全だと言い続け、その「嘘」に耐え切れなくなった全住民は1985年、他島への移住を自ら決定した。そして現在、また除染は完了したということで、住民に対し帰島を奨める状況になっている。

故郷の島を離れたことで引き起こされる独自の文化、そして家族の絆の崩壊。自給自足の生活から、いやおうなしに巻き込まれる貨幣経済。もともとロンゲラップ島で生まれ育った世代と、島を知らない世代との故郷への想いの違い。例え「安全」でなくとも島に戻ってそこに骨を埋めたい世代と、戻ることによって新たな世代に被曝が及ぶことへの懸念。これから日本でも起き得る、もう起きているかもしれない事態が描かれている。

1985年に全島民が移住を決めた時に、アメリカ政府高官の住民への非難。

「移住による精神的影響は、放射線による影響より危険だ」

その通りの面もあるだろう。しかし、住民にとってはそれがわかった上での選択だったはず。
この言葉を聞くと、現在、ネット上でも「原発事故関連死の大きな部分は、事故そのものよりも、避難による精神的なものが占める」と主張する人たちの言葉にも繋がってくる。

もちろん、戻っても問題がない状況であるなら、早く戻れるようにすべきだ。それを誰がどのように明確に判断し、かつ住民の納得を得られるようにするのか。そこがはっきりしない限りは、そう簡単には解決しないだろう。

この本を読んでも、ロンゲラップ島の除染が完了した、というのが島の一部のことなのか、全てのことなのか明確でない。過去の経験から、アメリカ政府から「安全」と言われても、信じていいのかどうかも分からない。「マーシャル・アイランズ・ジャーナル」の編集者ギブ・ジョンソンの言葉が重い。

1954年の核実験、さして1957年に「調査のため」に帰島させられたこと、この二つの事実は、ロンゲラップ島の住民の考え方に「暗い影」を落としました。この「暗い影」こそが、住民にとって「アメリカとの歴史」そのものなのです。
ですから、アメリカがロンゲラップへの帰島を実現させたいのなら、ただ単に「あなたの島は安全です。戻ってください。」と言うだけでは足りないのです。50年、60年と積み重ねてきた両者の歴史を考えてみれば、そんな簡単に済む話ではないと分かるはずです。


福島の原発事故で避難している人たちが戻れる状況になっているのかどうか。もちろんもう戻れない地域もあるだろう。でも戻れるところがあるなら、早くそのことを宣言してほしい。ただし、宣言したからと言って戻ることを急いではいけないのだろう。誠意を込めた、息の長い説明が不可欠であろう。ネットで高説を垂れているだけでは、物事は進まないと思われます。
by kurijin-nichijo | 2013-07-29 15:49 | 歴史
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