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栗栖増人来兵衛日乗

いろいろやりすぎて収拾のつかない栗栖増人来兵衛の好き勝手な日記
再び「逝きし世の面影」
書きたいことは沢山あれど、それを書こうとすると間違いなく長い時間を取られるので逡巡していると、このブログは「日記」ではなく「月記」になってしまっていますね。

再び「逝きし世の面影」_e0181546_10411681.jpgで再び「逝きし世の面影」。

これについても書きたいところは沢山あって、本気で書いたら何日も続くような気がします。今日は「第七章/自由と身分」の内容からちょっと書いてみます。

幕末から明治初めにかけて日本人と接触した欧米人たちには、雇い主と使用人の関係に戸惑ったらしい。彼らの国では使用人は命じられたことだけをやる。それが当たり前だった。ところが日本人は、にこやかに指示を受けはするけれど、欧米人にとっては余計なことまでする。

例えば、雇った料理人に羊肉を買ってこいと命ずると牛肉を買ってくる。なぜなら、その方が安価なので雇い主の出費を抑えるべきだと自主判断したから。たしかにこれでは羊肉を食べたかった雇い主は怒るわね。

明治中期の体験談としてアリス・ベーコン女史が、その著書の中で次のように記しているとのこと。

家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやりかたで行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使にとって美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならぬ。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。

当時の日本人にとっては、命令された事柄に対して、それが雇い主にとってどのようにすれば最善の結果になるかを自分で判断して行動することが当たり前だったようだ。言われたことしかしないのは、むしろ雇い主に対して忠義に反するというところだろうか。

初めのうちはそれが「癪にさわった」アリス・ベーコン女史も、やがて使用人のやり方を受け入れる。

使用人は自分のすることに責任を持とうとしており、たんに手だけではなく意志と知力によって彼女に仕えようとしているのだと悟ったとき、彼女はやがて、彼女自身と彼女の利害を保護し思慮深く見まもろうとする彼らに、自分をゆだねようという気になる。

この辺は大分希薄になったとはいえ、まだ日本人の心象の中に根強く残っている気がする。

ただチェンバレンという人のこの言葉を聞くと、危うい面もあるのに気付く。

不服従が慣例になっている。それはわざと悪意をもってする不服従ではない。主人がやるよりも自分のほうがもっとよく主人のためにやれるのだという、下級者の側の根深い信念に基づくものである。

ここまでくるとピンと来るものがある。著者の渡辺京二氏も、そのあと次のように指摘している。

昭和前期の軍部の暴走を主導した佐官級幹部の「下克上」現象も、その淵源とするところは深いといわざるを得ない。

これは現在の官僚の問題や原子力村などにも繋がっているのかもしれない。例えば憲法や法律を変えることなく、なし崩し的に運用で変えていく傾向にある「日本」にもまだまだ色濃く残っているのかもしれない。そして自分の中にもきっと。


ということで、パソコントラブルも含めて、結局30分以上かかってしまいました(苦笑)。
by kurijin-nichijo | 2012-02-08 11:27 | 歴史
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